名古屋高等裁判所 昭和45年(う)200号 判決 1971年2月26日
控訴人 原審検察官・原審弁護人
被告人 萩下四朗
弁護人 伊神喜弘 外一名
検察官 本多久男
主文
本件各控訴を棄却する。
理由
本件各控訴の趣意は、検察官の控訴について名古屋地方検察庁検察官検事中嶋友司作成名義の控訴趣意書に、弁護人の控訴について、弁護人伊神喜弘作成名義の控訴趣意書および弁護人伊神喜弘、同小栗孝夫の両名作成名義の控訴趣意補充書に、それぞれ記載されているとおりであるから、ここにこれらを引用する。
弁護人伊神喜弘作成名義の控訴趣意書および、同弁護人ならびに弁護人小栗孝夫の両名共同作成名義の控訴趣意補充書記載の控訴趣意について。
所論は、要するに、集団運動について、許可制を軸とする行進又は集団示威運動に関する条例(昭和二四年七月二日愛知県条例第三〇号、昭和三六年一〇月三日愛知県条例第四三号により改正、本判決書においては以下県条例と略称する)の各規定は、その制定経過、規定内容、運用の実態から明らかなごとく集団行動の事前抑制を通じ、事実上、必然的に反体制、反政府思想の抑圧の機能を果す治安立法であつて、思想の差別的取扱をし、思想の自由、表現の自由を侵害するもので、憲法第一四条第一項、第一九条、第二一条に違反するものである。これを個々についていえば、
一、県条例は、集団行動について許可制をとつているけれども、その許可制は表現の自由としての集団行動をのみ規制の対象として、これを事前規制の下におき、しかもその許可基準が甚だ不明確であつて、表現の自由を侵害することが大きく、また許可制をとることによつて、警備警察当局による情報蒐集、採証活動を根拠づけることにもなり、結局表現の自由としての集団行動を圧殺するに至るべきものであり、
二、県条例第四条第三項の規定による条件の付与は、その対象範囲ならびにその基準が全く無限定、不明確で、しかも違法な条件を付せられた場合にも救済方法がなく、さらにはその条件の内容が不明確なため、実際の運用の面において、集団示威運動の効果を全く減殺するような運用がなされているほか、その条件の付与に関して、集団示威運動の主体である団体によつて差別的な取扱がなされており、
三、県条例第八条の即時強制の規定も、その要件が、他の法律に比して著しく緩和されていて、濫用の危険を含み、表現の自由を著しく侵害するものであり、
四、県条例第五条は、これと同種事犯に対する道路交通法による処罰規定よりも重く、一般参加者をも処罰し、一般人を集団行動から遠ざける機能が大きいのであつて、
以上の各点は、いずれも、県条例の治安立法性を如実に示しているもので、憲法第一四条、第一九条、第二一条に違反するものである。そして、本件集団示威行進に対して付与せられた条件は、あるいは国の法律に牴触し、あるいは必要最少限度をこえ、同じく憲法の前記各条項の趣旨に違反するものである。
しかるに、原判決は、このような県条例の各規定が、憲法に違反しない趣旨を判示し、かつ、これらの規定を適用して、本件につき、被告人を有罪として、処断しているのであつて、原判決は、この点において、法令の解釈適用を誤つたものであるというのである。(なお弁護人は、前同控訴趣意書において、原審において同弁護人らが提出した弁論要旨を引用しているが、控訴趣意書に、原審における弁論を引用することは許されないものと解するから、同引用の点につき判断をしない。)
所論にかんがみ検討するに、所論の主張は多岐にわたるので、その主眼とする趣旨を要約して、それらの点につき、以下において、順次に、これが判断を示すこととする。
先ず県条例による規制の対象の点について、県条例第一条は、「行進又は集団示威運動(便宜上、これを、以下において、集団行動と略称する)が道路、公園若しくは、広場を行進し又は占拠する場合は予め公安委員会の許可を受けなければならない」と定め、ただ、右の集団行動のうち、葬儀、祭礼の行事、スポーツ競技等体育運動、学校官公庁が慣例として催す行事については許可を要しないものとしているほか、所定区域につき、その参加人員によつて許可を要しない場合をも定めていることは所論のとおりである。しかしながら、後に説明するように、集団行動に関し、事前の許可にかからしめた所以は、集団行動が純粋な表現の自由の行使の範囲を逸脱し、静ひつを乱し、暴力に発展する危険性のある物理的力を内包しているという不安が存し、これに対し、集団行動を事前に予知し、不慮の事態に備え、適切な措置をとり、公共の安全と社会の秩序を維持しようとするものであつて、この趣旨からすれば、その集団行動における参加人員の程度あるいはその集団行動の性質、その地域における道路状況、交通状況などからみて、経験則上、あるいは社会通念上、前記のような不安を抱くに至らないものまで、許可にかからしめることは無用であるから、これを許可の対象から除外すべきことは当然の事理に属し、県条例はこの見地から、前記の許可を要しない各場合を定めているものと解され、他の地域におけるこの種の各条例を見ても、県条例とほぼ同種の場合を許可の対象から除外しているのであり、県条例が前記の各場合を許可の対象から除外しているからといつて、それがとくに思想の表現を目的とする集団行動のみを抑圧しようとの意図に出たものとは解されない。
次に、県条例の定める許可基準の点について、県条例第一条は、公共の安全を保持し、公衆の道路等を使用する権利を保護するために、集団行動が公園若しくは広場を行進し、又は占拠する場合は予め公安委員会の許可を受けなければならないとしている。なるほど、表現の自由が尊重されるべきことは当然であり、県条例第一条が前記のように許可にかからしめている集団行動は、所論指摘のごとく、思想の表現を目的とする集団行動が主要な部分を占めると思われるのであり、これらの集団行動について一般的な許可制を定めて、これを事前に抑制するようなことは憲法の趣旨に反して許されない。しかし集団行動は、単なる言論、出版等の思想表現方法と異り、多数人によつて行なわれ、これが統一的な意思のもとに行動する結果、その地域における公共の安全すなわち一般公衆の生命、身体、財産ないしは日常生活の便益若しくは社会秩序に対し、何らかの危険を及ぼす可能性を包含していることは否むことができないところであり、これが勢のおもむくまま、公共の安全を害するに至る場合が存することも考え得られるところである。ところで一方、県条例は憲法第九四条に基づき、地方自治法第一四条第一項の規定の趣旨に従い県議会の議決を経て制定されたものであつて、いわゆる行政事務条例に属し、その規定の対象たる事項は、地方公共の秩序を維持し、住民及び滞在者の安全健康及び福祉を保持し、公園、運動場、広場、緑地、道路、橋梁、河川、運河、溜池、用排水路、堤防等を使用する権利を規制するなど、主として地方公共団体が地方公共の福利を維持するため、その区域内で、地方公共の利益に対する侵害を防止または排除して、住民の権利を制限し自由を規制するような、事務であつて、必然的に憲法の保障する基本的人権とかかわりを持つことが多いのであるが、県条例は前記のごとく憲法の規定に直接の根拠を有し県議会の議決を経て制定されたもので、法律の範囲内において、住民の権利、自由を規制しうるものであるから、基本的人権との関係において、その限度で、法令の場合と同視することができ、公共の福祉の要請に基づき基本的人権を制限することも可能であると思われる。そして、表現の自由も絶対無制限ではなく、公共の福祉による制約が存するものと解され、とくに、前叙のような、集団行動の性質にかんがみると、地方公共団体が、その地域における公共の安寧が不当な集団行動によつて侵害されるのを防止するため、表現の自由を口実にして、集団行動により、その地域住民及び滞在者の安全健康及び福祉等公共の安寧を破壊するような行動またはさような傾向を帯びた行動を事前に予知し、不慮の事態に備え、適切な措置を講じうるようにすべき要請の生ずることもやむを得ないところであり、地方公共団体が右の目的のもとに、必要かつ最少限度の事前の措置として、特定の場所又は方法による集団行動につき、合理的かつ明確な基準のもとに、あらかじめ許可を受けしめ又は届出をなさしめることとし、とくに、公共の安寧に対して明らかに差し迫つた危険をもたらすことが予見されるような集団行動にかぎつてこれを禁止しうる旨の規定を設けても、右の基準が合理的かつ明確で、右の禁止が必要最小限度にとどまる限り、条例の右規制をもつて、直ちに憲法の保障する表現の自由を侵害するとまで解することはできない。そこで、県条例の規定をみると、その第四条第一項は「公安委員会は第二条の申請があつた場合には、行進又は集団示威運動が直接公共の安全を危険ならしめるような事態を惹起することが明瞭であると認める場合の外、これを許可しなければならない」とし、かつ、同条第二項において「公安委員会は、第二条の申請に対し許可をしなかつたときは速やかに県議会に対し不許可の詳細な理由説明書を付し報告しなければならない」ことを定め、これによつて、公安委員会に許可を義務づけ、不許可となしうる場合を厳格かつ最少限度に制限しておるのであつて、集団行動を一般的に禁止しているものとはいえないところであり、なるほどその不許可の基準は、集団行動が「公共の安全を危険ならしめるような事態を惹起することが明瞭であると認める場合」というのであつて、一見抽象的な用語の羅列とみられ得るけれども、複雑多岐にわたり、しかも刻々に変動する社会の状況に即し、公共の安全に対する明白かつ直接な危険を生ずる場合をことごとく予測して、逐一、詳細に、これを規定することは、至難に属し、これをたとえ、所論の京都市条例のごとく「公衆の生命身体自由又は財産に対して直接の危険を及ぼすと明らかに認められる場合」と書きかえたところで、その帰一する趣旨は同一であつて、表現の自由は尊重されるべく、これに対する制限は最少限度にとどめるべきであるということ、および、前記のような条例の目的、範囲を念頭において、各具体的場合について、それが公共の安全に対する「直接かつ明瞭」な危険にあたるか否かを判断することは、さほど困難であるとは考えられず、とくに条例で、前記の「直接公共の安全を危険ならしめるような事態を惹起することが明瞭であると認める場合」の内容を逐一規定しなくても、それが、不合理、不明確であつて、違憲であるとまでは解されない。
なお、所論は、許可を要する集団行動の場所的基準の無限定をいうけれども、これについて、県条例第一条は「道路、公園若しくは広場」と規定しているのであり、これは前記の集団行動の性質と公衆の福祉との関係から、公衆の利用する場所として考え得られる場所を、包括的にかかげたものと解され、これ以上に、具体的に規定することは困難であつて、県条例の右規定をもつて、無限定、不明確と攻撃することはあたらない。従つて、県条例第四条第一項が憲法の保障する国民の自由を不当に制限しているとは解されないところであり、しかも県条例に関する実際の運用においても、名古屋地方裁判所が、昭和四四年一二月一六日被告人谷洋二ほか二名に対する行進又は集団示威運動に関する条例違反、道路交通法違反被告事件につき施行した証人土川元夫に対する証人尋問調書中同人の供述記載によれば、愛知県において、従来申請があつた集団行動に対し、不許可にした事例が存しないことを認めることができる。
次に、県条例第四条第三項に規定する条件付与の点について考えると、先ず、県条例第四条第三項は「第一条の許可に際し、公安委員会は、公共の安全又は公衆の権利を保護するために必要と認める場合には、前条に掲げる事項について必要な条件を付することができる」と規定している。そこで、このような条件が、集団行動の自由を制約し、表現の自由を侵害するに至るべきことは、当然推測せれらるところであるから、この制限が憲法で保障する表現の自由の尊重の見地から、前叙のような集団行動の包蔵する危険を除去するに足る必要最少限度のものでなければならぬことは明らかである。従つて、県条例が、同第四条第三項の規定によつて付する条件は、県条例が地方公共の秩序を維持し、住民及び滞在者の安全健康及び福祉を保持する目的をもつことに照し、これら公共の安寧に対する危険を排除するため、必要にして最少限度のものであることを要するものであり、この限度を超えて、条件を付し、若しくは、この限度を超える条件の内容を定めることは許されないといわなければならない。そして、右の公共の安寧に対する危険を排除するための必要最少限度という観点からすれば、先ず公安委員会の定める条件と、その条件を付しない場合に予測される前記の公共の安寧に対する危険との間の結びつきが、直接、かつ明瞭でなければならないということは当然の帰結であり、これを換言すれば、公安委員会が条件を付し、若しくは、その条件の内容を決定する場合は、その条件を付しなければ、その集団行動が前叙の公共の安寧を維持するうえに直接危険を及ぼすことが明らかである場合に限定されるべきものといわなければならない。また同様の観点からみて、条件の内容は、それ自体において、明確であることを要することはもちろん、集団行動の主催者若しくは参加者において、これを遵守する意思さえあれば、容易に遵守し得る程度のものであるべきことを要するものといわざるを得ない。さらに、県条例は、その第五条第一項において、同第四条第三項の条件に違反した者を処罰する旨の規定を置いているのであり、およそ、ある行為を処罰する規定が存在するためには、その処罰規定を制定するにあたり、当該行為が、その処罰に値いするか否かの評価がなされるべきことはいうまでもないところであり、県条例の条件違反の行為内容は、公安委員会が条件の内容を決定する際に定まるのであるから、その際、その条件の内容につき、当該条件に違反する行為が処罰するに足るものであるとの評価に堪え得るものでなければならないと解すべきことは当然である。
ところで、県条例第四条第三項は、公安委員会の付する条件の基準として、「公共の安全又は公衆の権利を保護するために必要と認める場合」と規定しており、この部分のみを取り上げると、その基準がやや漠然とし、不明確のように思われるけれども、県条例の各規定の解釈は、県条例全体の規定の趣旨、県条例の目的、範囲およびその性格などを総合してなされるべきであり、その総合考慮して得られた条件の基準に関する解釈は、前叙のとおりであり、県条例第四条第三項のこの点に関する前記の規定も、右の趣旨に理解し、そのように解釈することができるところであるから、所論のように、条件付与の基準が、不明確であるということはできない。そこで、本件公訴にかかり、被告人が違反したとされる条件は、原判決挙示の各証拠によれば、「うずまき行進、だ行進およびことさらに隊列の幅を広げ、もしくは遅足行進、停滞その他一般の交通に障害を及ぼすような形態にならないこと」というのであり、この条件について検討すると、前掲各証拠によれば、本件集団行動は、愛労評傘下の国鉄労組ほか四九組合が参加し、その参加予定人員約三五〇〇人で、その行進予定路線は、久屋市民広場→久屋大通西線北進→小市場交差点左折→錦通り西進→呉服通り左折南進→広小路通り右折西進→笹島交差点右折歩道北進→毎日ビル前であつて、ほぼ名古屋市の中心街を通過するものであり、その予定行進時間は昭和四三年一〇月一五日午後七時から午後九時までというのであつて、これらの状況を前記説示の各基準に照して考えてみれば、右集団行動に対し、うずまき行進、だ行進、ことさらに隊列の幅を広げての行進、ことさらな遅足行進、ことさらな停滞を禁ずることは、前叙の必要最少限度の範囲を超えるものではないと認められ、これが所論の憲法の各法条に抵触するものとはいえない。ただその条件のうち、「その他一般の交通に障害を及ぼすような形態にならないこと」とある部分は、その内容が不明確であつて、前示の基準によつて評価することができないから、この部分は、条件の内容として相当でないというのほかない。しかし、この部分を除いても、前記条件の内容は、明らかに理解できるところであるから、前記の違憲でないと認めた部分の成否には影響がないと断ずる。これに関し所論は、本件集団行動に付された他の条件の不当をいうけれども、一部の条件が無効であることは、他の条件の効力に影響を及ぼすものとは解しないし、本件の他の各条件も、前記基準に照してみて、さらに逐一詳細な判断をまつまでもなく、とくに不当のかどを見出せないから、この点に関する所論も当らない。
そのほか所論は、条件を付しうる対象が無限定であることにも論及するが、県条例第四条第三項、第三条は条件を付し得る対象範囲を一応定めているし、条件を付し得る場合の基準について、前叙のように厳格に解する限り、その範囲、程度はおのずから明らかになるところであるから、この点によつて、県条例が憲法第二一条に違反するとは考えられない。また所論は、条件の付与に関し、その集団行動の主体たる団体により差別的取扱がなされていると主張するが、当該集団行動の参加人員、行進の路線、行進の日時、当該団体の集団行動における従来の状況などによつて、条件の付与、若しくはその条件の内容に、幾分の差があり得ることは、当然予測することができるのであり、本件各証拠を調べても、とくに、その抱懐する思想のみによつて、条件の付与あるいはその条件の内容の決定につき、差別的取扱がなされているという証左はないし、条件付与の基準を、前叙のように理解すれば、所論のごとき差別的取扱が行われることを避けるに足ると理解できる。なお、条件の付与に関し、即時の救済方法が存しないことは、所論のとおりであるけれども、立法政策としてはともかく、即時の救済方法がないことの一事をもつて、県条例の右規定が憲法に違反するとまでは解することができないところである。蓋し、行政機関による違法な処分についての救済については、損害賠償請求等適当な法的手続によることができるからである。
次に、県条例第八条は、「第四条第三項の規定により付された条件に違反して行なわれた行進又は集団示威運動に参加した者に対して、公共の秩序を保持するため、警告を発し、又はその行為を制止することができる」と規定している。
この規定は、条件違反行為があり、かつ公共の秩序を保持するための必要が存する場合に、警告を発し、またはその行為を制止することができるという趣旨に解すべきところ、警察官職務執行法第五条は、所論のごとく「警察官は、犯罪がまさに行なわれようとするのを認めたときは、その予防のため関係者に必要な警告を発し、又、もしその行為により人の生命若しくは身体に危険が及び、又は財産に重大な損害を受ける虞があつて、急を要する場合においては、その行為を制止することができる」と規定している。県条例の前記規定と警察官職務執行法の右規定とを比較してみると、前者の警告、制止の方が、後者のそれらよりもゆるやかな要件に基づいて行い得るように解されないこともないが、県条例の目的、範囲は前説示のとおりであるうえに、県条例第八条の警告、制止は、すでに行われはじめた条件違反行為によつて、公共の秩序が侵害されるのを防止しようとするものであり、警察官職務執行法第五条の目的は、まさに行われようとする犯罪を予防しようとするものであつて、両者は、それぞれ、その趣旨、目的を異にし、その規制の対象に相違があるということができ、県条例第八条が、警察官職務執行法第五条に抵触するとはいえないし、条件の基準を前叙のように解する限り、前者の要件が後者の要件よりもゆるやかであるとは一概にいえないところであり、かりに、その要件において、県条例の方がゆるやかであるとしても、条件違反行為の反覆継続により、公共の秩序が侵害されようとしている場合に、これに対し警告を与え、あるいは制止しうることを規定しても、とくに、該規定が憲法に違反し、無効であるとは解することができない。
次に県条例第五条の規定に関する所論について考えると、道路交通法第七六条第四項、第一二〇条第一項第九号は、すわり込み等道路上の交通の妨害をするような行為を禁止し、これに違反した者を処罰することを規定し、同法第七七条第一項、第三項、第一一九条第一項第三号、第一二号は、道路の使用について許可を必要とする場合を定め、また同許可申請をせず、または、条件に違反して、道路の当該使用をしたものを処罰することを規定していることは所論のとおりである。しかし、県条例は、さきに説示したような目的をもつものであり、道路交通法は、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑をはかる目的を有するものであつて、右両者は、それぞれ、その範囲において、一部重複するものがあるとはいえ、結局、その趣旨、目的を異にし、県条例に基づいて定められた条件の内容が道路交通法の規定の定める行為と類似するものがあつても、右の条件が、道路交通法に抵触し無効のものということはできない。また、県条例第五条第一項は、条件違反をした集団行動の一般参加者をも処罰する旨を規定している。このことは、所論のごとく、一般の参加者を集団行動から遠ざける機能を営むおそれなしとはしないが、条件の基準を前記のように解すれば、単純参加者の条件違反といえども、公共の安全を危険ならしめるおそれが相当に高いといわなければならない。そうとすれば、集団行動の単純参加者をも含めて条件違反の行為をした者に対し、刑事罰をもつて臨むこととした県条例第五条第一項の規定を違憲、無効のものということはできない。
そこで進んで、本件集団行動の規制に関する実際の運用の面について考えてみると、原判決挙示の各証拠および当審第二回公判調書中証人真野一美の供述記載、同第四回公判調書中証人岡本義夫の供述記載によれば、本件集団行動、とくに、被告人を含む学生約三〇〇名の行進に対して、昭和四三年一〇月一五日午後六時五六分ごろから、名古屋市中区錦三丁目二五番一一号小市場交差点付近以後、愛知県警察機動隊員約二四〇名が、右行進に併進して、同行進を規制し、そのほかに、愛知県警察本部および愛知県中警察署において、警察官一〇数名で特科班(総括採証班、採証検挙班)を編成して、条件違反等違法行為に関する証拠の蒐集あるいは違法行為者の検挙にあたつたことが認められる。およそ、上来説示して来たような見解に従えば、集団行動に対する規制あるいはその際の違法行為に関する情報の蒐集は最少限度に抑えられなければならないと考えられるのであるが、一方前掲の各証拠によれば、被告人らの本件集団行動は、集団行動の本来のすがたである静ひつにして、秩序ある状態を逸脱すること甚しいものがあつたと認められ、また本件証拠上、警察官による右の採証活動が、本件集団行動における違法行為に関する証拠蒐集あるいは検挙の範囲を超えたものと認めるに足る証左はなく、そこに行き過ぎがあつたとは認められないので、右の本件集団行動に関する県条例の運用面においても、違憲、無効の廉あることを認めることができない。
最後に、原審第七回公判調書中証人吉岡義紀の供述記載、名古屋地方裁判所が昭和四四年一〇月三〇日、昭和四三年(わ)第一八八号事件につき施行した証人斉藤武治に対する証人尋問の速記録の記載によると、県条例の制定に際し、多少の紛糾があつた事情は、これをうかがい得るけれども、その制定手続に違法があつたことは、これを認めるに由なく、従つて、右の事情があったからとて、県条例を無効と断ずることはできない。
以上の各点につき、順次に示した判断に徴し、「県条例が、その制定経過、規定内容、運用の実態から明らかなごとく集団行動の事前抑制を通じ、事実上、必然的に反体制、反政府思想の抑圧の機能を果す治安立法であつて、思想の差別的取扱をし、思想の自由、表現の自由を侵害するもので、憲法第一四条第一項、第一九条、第二一条に違反する」旨の所論が採用し得ないことは自ら明白であり、その他に、本件訴訟記録を精査しても、原判決が有罪と判示認定した部分につき、所論のごとき違法の廉が毫もなく、従つて本論旨は、結局その理由がないことに帰着する。
名古屋地方検察庁検察官検事中嶋友司作成名義の控訴趣意書記載の控訴趣意中、原判決に法令の解釈適用を誤り、事実を誤認した違法が存すると主張する論旨について。
所論は、要するに、原判決は、検察官の「被告人は昭和四三年一〇月一五日愛知県地方労働組合評議会が青年反戦決起等を目的とし、名古屋市中区栄三丁目一六番一〇号付近から久屋大通を北進し、綿通、呉服通、広小路通を経て、国鉄名古屋駅前に至る道路上において行進を行つた際、学生約三〇〇名とともに参加したものであるが、同行進は愛知県公安委員会から『だ行進およびことさらに隊列の幅を広げ、その他一般の交通に障害を及ぼすような形態にならないこと』などの条件で許可されているのにもかかわらず、右学生約三〇〇名と共謀の上、同許可条件に違反して、同日午後六時五一分ころから同午後七時三〇分ころまでの間、同区栄三丁目一五番一九号付近から同区綿一丁目二〇番二一号付近に至る前記各通りの車道上において、道路一杯に隊列の幅を広げたり、四列縦隊でだ行進を行つたりしたものである」という本件公訴事実のうち、「被告人が前記久屋大通西線において、同日午後六時五一分ころから同五六分ころまでの間、隊列の先頭に位置してこれを指揮、誘導しつつ、前記約三〇〇名の学生と共謀して、右の許可条件に違反して、久屋市民広場北西出口から久屋大通西線に出るや否や、激しいだ行進に入り、続いて四列縦隊のまま両手をつないでこれを一杯にのばし、ことさらに隊列の幅を広げて約二〇〇メートルをかけ足で行進し、次いで、同区錦三丁目二五番一一号小市場交差点手前に至るまでほぼ道路一杯のだ行進を行ない、もつてその間交通秩序に著しい障害を及ぼしたものである」との事実のみを有罪と認め、その余の前記公訴事実の部分に関し「同日午後六時五七分ころから同七時三〇分ころまでの間、久屋大通西線小市場交差点付近より同交差点を左折し、錦通、呉服通を経て、広小路通の中区錦一丁目二〇番二一号付近に至る間のだ行進については、特に右区間内の呉服通から広小路通に出た際と、伏見交差点にさしかかつた際には、ある程度のだ行進を行つたことを認めることができるけれども、これによつて交通秩序に著しい障害又は危険をもたらしたとか、あるいは私生活の平穏を著しく害し、若しくは害する危険性の顕著な事態に立ち至つたとは認められないから、憲法の保障する表現の自由に照らし、いまだ刑事罰をもつて臨むほどの違法性はないと解すべく、罪とならないが、それは、それ以前の久屋大通西線における右有罪認定にかかる事実と共に一罪として起訴されたものであるから、特に主文において無罪の言渡しをしない」旨を判示し、かつ、右の違法性がないとした部分に関して「条件は『公共の安全又は公衆の権利を保護するため』に附せられるのであるから、たとえ集団行動が、公安委員会の附した条件に形式的に違反するようなことがあつても、その結果、たとえば交通秩序に著しい障害又は危険をもたらしたとか、あるいは私生活の平穏を著しく害し、もしくは害する危険性の顕著な事態にまで立ち至らない場合には、憲法が保障する表現の自由に照らして、いまだ刑事罰をもつて臨むほどの違法性はなく、したがつて罰則の適用を受けないと解すべきである」と判示している。しかしながら、先ず県条例の罰則に関して、原判決が判示するような限定的解釈をとるべき理由は何もなく、条件違反の罪は、その条件が合法的であり、刑法所定の違法性阻却事由のない限り、条件違反の認識と違反行為があれば成立し、その条件違反の行為が交通秩序に著しい障害または危険をもたらしたなどの結果が発生したこと等他に特段の要件を必要としないものと解すべきであり、そもそも、集団行動は、他人の権利自由に関係する面が多く、また内外からの刺戟によつてきわめて容易に激発する物理力を内にひそめている性質のもので、県条例はかかる集団行動の特質にかんがみ、公共の安全等を保護するために必要と認める場合には、必要な条件を付することができるものと定めるとともに、その条件の順守を確実ならしめるため、条件に違反する行為に対して刑事罰をもつて臨んでいるのであつて、公共の安全等を保護するための必要ということは、条件が合法的であるか否か、適当であるか否かを判断する基準とはなり得ても、条件違反の罪の成立要件とは全く平面を異にする問題であるし、憲法の保障する表現の自由もこれが濫用を許されず、公共の福祉のために利用すべき責任を伴うこともまた他の基本的人権と異るところはなく、集団行動の前記のような性質から、法と秩序を維持するために必要かつ最少限度の措置を講ずることやむを得ないところであり、また違法な条件でない限り、憲法の保障する表現の自由の正当な行使を制限するものではなく、これが一般人を集団行動から遠ざける機能を営むものでもない。そして被告人が本件において違反した条件は「うずまき行進、だ行進およびことさらに隊列の幅を広げ、もしくは遅足行進、停滞その他一般の交通に障害を及ぼすような形態とならないこと」であるが、このような条件を付することについて、本件集団行進の順路とされた道路状況、その行進の時間帯、同集団行動の参加人員などの諸点を考慮すれば、そこに合理的な理由があり、これが公共の安全等を保護するため必要やむを得ないものであることは明白であり、かつこの条件を付することによつて、憲法の保障する表現の自由の正当な行使を制限するものではあり得ないところである。従つて、前記のような判示をした原判決は県条例第五条第一項の解釈適用を誤つたものであり、かつまた、本件証拠上、本件集団示威行進のうち、久屋大通西線左折後錦通、呉服通を経て、広小路通の中区錦一丁目二〇番二一号付近に至る間、とくに呉服通から広小路通に出た際の丸栄西北交差点付近および、伏見交差点付近において激しいだ行進が行なわれ、その結果、著しく交通障害が発生しており、さらにその他の行進路上においても、前記学生集団は、小きざみなだ行進をしたり、だ行進をしようと試みて、機動隊員に体当りしたりして、随所に交通が麻ひ停滞したり、混乱寸前の危険な状態であつたことが明らかであつて、本件集団示威行進のうち、右の部分に関し、前記のような認定判示をした原判決は、この点について事実を誤認したものである、というのである。
所論にかんがみ検討するに、先ず所論のうち、原判決が法令の解釈適用を誤つたとする点について考えると、県条例第五条第一項は、「第四条第三項の条件に違反した者は一年以下の懲役又は五万円以下の罰金に処する」と規定しており、この規定の内容を見れば、同条の構成要件としては、県条例第四条第三項の条件に違反する行為が存することおよびその行為の際、行為者において、条件違反に関する認識の存することのほか、何らの要件を規定していないところであつて、右に掲げた構成要件の充足があれば、県条例第五条第一項の条件違反罪が成立するものと解しなければならない。そして、その故に、条件の付与ならびにその条件の内容の決定の基準に関し、さきに弁護人の所論について説示したような解釈がなされざるを得ないのである。これについて、原判決は、「形式的には条件違反の行為があつても、その結果、たとえば交通秩序に著しい障害又は危険をもたらしたとか、あるいは私生活の平穏を著しく害し、もしくは害する危険性の顕著な事態に立ち至らない場合には、刑事罰をもつて臨むほどの違法性はなく、したがつて罰則の適用を受けない」旨を判示しているのであり、そのいう可罰的違法性に関する考え方については、必ずしも、反対するものではないが、原判決の判示するところを仔細に検討すれば、違法性と称するも、結局のところ、県条例第五条第一項の条件違反の罪の構成要件として、前示の要件のほかに、結果の発生すなわち交通秩序の障害等公共の安全に対する侵害(しかも著しい)が現実に発生したこと、若しくは、その侵害の具体的危険の発生をも要件とする旨の見解に立脚することに帰着し、このような結論に到達するについて、県条例の法文上の根拠は何ら存しないところである。なるほど、さきに述べたごとく、処罰規定の構成要件には該当するけれども、刑事罰をもつて臨むほどの違法性が存しない場合も考え得られるところではあるが、それには一般に原判決のいうような結果の発生のみならず、その行為の程度、その行為の社会的相当性等さらに厳格な考慮が必要であると考えられ、県条例第四条第三項の条件付与の基準について、前記説示のように理解するに限り、とくに、県条例第五条第一項の罪についてのみ、他の法令の処罰規定におけるのと異り、結果の不発生により、直ちに違法性が阻却されると解する根拠が薄弱である。従つて原判決説示の右見解は、これを首肯することができない。
さらに、所論のうち、原判決に事実誤認が存する旨の主張について案ずると、原判決挙示の各証拠ならびに当審第二回公判調書中証人真野一美の供述記載、同第四回公判調書中証人岡本義夫の供述記載によれば、昭和四三年一〇月一五日午後六時五六分ごろ、被告人ら学生集団約三〇〇名が、原判示小市場交差点を左折した後、同日午後七時三〇分ごろ被告人が森カメラ店前付近で逮捕されるまでの間に、警察機動隊負の規制の間隙をついて、呉服町通りから広小路通りへ出た付近で、同所交差点一杯になるくらいのだ行進をし、さらに伏見交差点付近においてだ行進をし、その間、被告人は、右学生集団のほぼ先頭にあつて、同集団に対面して笛をふいたりして、これを指揮していたことが認められ、これがさきに説示したごとき本集団行動に付せられた条件に違反していることが明らかであり、従つて、被告人の右所為についても、県条例第五条第一項の条件違反の罪が成立するものとしなければならない。そうとすれば、この点につき、所論摘録のような認定判示をした原判決には、右説示の各点において、法令の解釈適用を誤り、事実を誤認した違法が存するものといわなければならない。
しかしながら、本件公訴事実は、原判決が罪となるべき事実として認定判示した部分と、原判決がその理由中で罪とならないとした部分とを併せ、県条例第五条第一項の条件違反の一罪として起訴されたものであるところ、(イ)原判決が、罪となるべき事実として認定判示した部分における集団行動が、交通の秩序その他公共の安全に支障を及ぼした程度が甚しく、これが本件条件違反の主要部分を占めるものと認めるに足り、これに比較して、(ロ)前記の小市場交差点を左折した後の部分における集団行動は、前記認定のとおり、条件に違反し、だ行進がなされたとはいえ、警察機動隊員の規制の間隙をついて、ごく短区間に亘りだ行進が行なわれたのであつて、これが交通の渋滞等公共の安全に及ぼした影響も少ないと認められるのに加え、右(イ)、(ロ)の各集団行動を一環したものとして捉え、その各条件違反の点を結局一罪として起訴せられた本件であることにかんがみ、原判決が罪とならないとした右の(ロ)の部分を、前説示のごとく罪となるべき事実と認定しても、その法令の適用上、何らの差異がなく、また、同(ロ)の部分の犯情は、原判決が罪となるべき事実として認定した右の(イ)の部分の犯情に較べ、甚だ軽いと認めることができるばかりでなく、右の(ロ)の部分を原判決が罪となるべき事実として認定した右の(イ)の部分に付加して考察しても、これと原判決が罪となるべき事実として認定した右の(イ)の部分だけとの間に、その量刑上においても、左程の径庭が存するものとは認められない。そうとすれば、原判決には、前説示のごとく県条例第五条第一項の解釈適用を誤り、かつ事実を誤認した違法が存するけれども、その各違法は、判決に影響を及ぼすほどの程度に至らず、未だ原判決を破棄するまでに至らないものというほかなく、従つて、本論旨は理由がないことに帰着する。
前同控訴趣意書記載の控訴趣意のうち量刑不当を主張する部分について。
所論は、要するに、原判決の被告人に対する量刑が軽過ぎて不当である、というのである。
所論にかんがみ、記録を調べ、当審における事実取調べの結果を参酌し、本件量刑に影響を及ぼすべき一切の情状を検討すると、被告人を含めた原判示学生集団約三〇〇名が昭和四三年一〇月一五日午後六時五一分ごろ、原判示久屋市民広場を出発してから同日午後七時三〇分ごろ、被告人が、前記森カメラ店前付近で逮捕されるに至るまでの間において、原判示ならびに前示認定のようにだ行進をし、あるいはほぼ道路一杯に隊列の幅を広げたりして行進をし、これによつて、交通の停滞等、公共の安寧に、障害を与え、またその危険を生ぜしめ、とくに、原判決が、有罪と認定した部分において、その程度が甚しいものであつたこと、そしてその間被告人が前記認定のように、前同学生集団を指揮していたものであることが認められ、このような集団行動がさきに説示したような集団行動の本来のあり方にかんがみ、許容されるべき範囲を甚しく逸脱するものであることは明らかであり、従つてその違法性の程度も高いといわなければならないと思われるのであるが、一方、原判決が、罪となるべき事実と認めた前記(イ)の部分における条件違反の行為がなされた時間は、その前後を通じて約五分ないし六分間、その余の当審において罪となるべき事実と認めた前記(ロ)の部分における条件違反の行為がなされたのは、前記認定の二個所において、ほぼ各三分間位の短時間のものであつて、その各時間内において、交通の渋帯等公共の安寧に障害を与え、または危険を生ぜしめたとはいえ、幸にも公衆の生命、身体、財産に対し、特段な具体的侵害を及ぼしたものと認められないこと、さらには被告人の年令、身分、境遇などを彼是総合して、考慮すれば、原判決の被告人に対する本件量刑が、とくに軽きに失し、原判決を破棄しなければならないほど不当なものであるとは認められない。従つて本論旨も理由がない。
上来説明のごとくであるので、本件各控訴は、それぞれ、いずれの観点からしても、その理由がないことに帰着するから、各刑事訴訟法第三九六条に則り、いずれもこれを棄却することとし、当審における訴訟費用については、同法第一八一条第一項但書を適用し、これを全部被告人に負担させないこととする。
以上の理由によつて、主文のとおり判決をする。
(裁判長裁判官 上田孝造 裁判官 杉田寛 裁判官 吉田誠吾)